【ヒットの“共犯者”に聞く】映画「時かけ」の場合III 角川書店・マッドハウスプロデューサーインタビュー その3

2006年12月8日 金曜日 山中 浩之
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20061201/114774/

−− 映画「時をかける少女時かけ)」の、実際の制作はどんなスケジュールだったのですか。

渡邊 映画のプロデューサーの経験は全くなかったので、手探りでしたが、とにかくまず、監督と内容をどうするのか、話をしました。

 2004年の7月、アニメのイベントで、彼がドイツに行くのに同行してね。その2カ月後の9月には、脚本会議がスタート。脚本家の奥寺佐渡子さんに加わってもらって、監督と齋藤君と僕の4人で、毎週、毎週、ディスカッション。みんなで話し合って作り込んでいったわけですよ。それを9カ月続けました。

「ヒロインを変えよう!」で正月合宿

−− 9か月。ディスカッションだけで。

渡邊 その間にはお正月(2005年1月)があって、みんなで一緒に合宿(笑)。いや、年末に1回、しっとりしたいい印象のシナリオが出来上がったんですけど、「やっぱりちがうんじゃないか、もっと元気な方がいいんじゃないか」って細田監督が言い出して。それじゃ、直しましょうということで。それで合宿に。

齋藤 僕なんかそれに参加するために、年末から海外に行っていたのを急遽帰ってきましたからね(笑)。1月1日の夜8時ぐらいにフランクフルトを発って、2日に帰国、速攻、合宿所に直行みたいな。で、紺野真琴が主人公になったプロットが2月にできました。

渡邊 さらに連休、2005年5月の頃の最後の仕上げも、やっぱりホテルで缶詰めになって。そういう合宿をして脚本をまとめていきました。

−− シナリオにそれだけ時間をかけたと。アニメや映画のディスカッションは、おおむね1か月前後って話も聞きますが。

齊藤 アニメの場合、共同作業が多いのですが、脚本に関しては2週間ぐらい合宿でコンセプトや脚本をまとめるといったケースもあったりはします。ただ、ここまで出来た作品というのは、なかなか希有なケースだなと。

 シナリオの開発にはいろいろな方法があると思うんですよ。ライターさんにお任せする場合もあるし、監督が書くこともある。だけど、今回は、関係者全員が、「この作品に必要な時代性は何なのか」、みたいなことを、一から組み立てていったわけです。だからこれだけ時間がかかった。でも、これは必要な時間と作業だったんです。

−− 9か月間、毎週打ち合わせとおっしゃいましたけど、本当に?

9カ月毎週末返上、休みナシ

渡邉 週2回、土日です。なぜ土日かというと、2004年夏に脚本作りがスタートしたときには、細田は実はまだ前作の作業が残っていた。ということは、別の仕事をすることができるのは休日じゃないですか。土日にこちらの仕事をして、平日になると…

齊藤 別の現場に帰っていく。で、また次の土日は、マッドハウスでずっと。

渡邊 みんな休みナシですよ。齋藤君ももう1本の劇場作品と諸々の企画を、並行していたし。僕も、平日は出版の仕事をしていましたから。まぁでも、そうしないと終わらなかったね。それこそ、制作の現場を取り仕切る齋藤君は、たぶん一番いらいらしたんじゃないかな。

齊藤 まだシナリオが…。そろそろリミットだよ…と(笑)。

渡邊 だって、常にスケジュールの引き直しから、彼の仕事が始まるんだからね。最初の予定では、年末には作画に入ることになっていたんですけど。

−− しかし、現場というのはそこまで融通が利くものなんですか。シナリオ完成が伸びたらその間、制作スタッフを押さえているわけですよね。お金だって、無駄にかかる。

齊藤 いや、常に同時並行ですね。待ってもらいつつ、お願いをしつつ。離れていってしまう人を指をくわえて見ているわけにもいかないので。追いかけると同時に、常に状況を読みつつ、保険をかけつつ、確実に必要なときに作業に入れる形を作っておいて、機が熟したら一気に、そのまま制作になだれ込む…という。

渡邉 それはもう、大変なことですよ。

齊藤 でも何度も言うようですが、最初から、腰を据えて納得がいくまで、細田監督と一緒に行きましょうというスタンスでやっていましたからね。

波多野 この際、いろいろ伺ってしまいますが、そうして並んだスタッフもすごいですね。脚本の奥寺(佐渡子)さんは実写の「学校の怪談」(平山秀幸監督)の脚本を書かれた方で、アニメは初めてなんですよね。美術監督の山本二三さんは、スタジオジブリの「もののけ姫」や「火垂るの墓」などの作品で美術監督を手がけられてた方ですし。

渡邊 いやぁ、あの人、この人と言うけれど、要するに細田監督なんだよね。

齊藤 監督がイメージする絵作りや芝居、クオリティに対する要求に応え得る人を出来る限り粘りに粘って探したり。

渡邉 細田監督と仕事がしたい、と言って来て頂ける方もいたり。

「拉致するしかないな…」

齋藤 細田監督が必要とする人材を、どう予算とスケジュールをすり合わせて、お願いしていくかということなんですが、そうは言っても、スケジュールが合わなかったり、それぞれ皆さんの事情もありますよね。

 奥寺さんに関しては、細田監督が以前、奥寺さんの脚本を拝見する機会があって、「この人はすごくいい、特に会話が小気味いい。現代の若者がしゃべるようなことを、ナチュラルに書くことができる」とか、沢山、沢山すっごいんですよ!と。是非、奥寺さんとやらせて頂ければという話になったんですね。

渡邊 キャラクターデザインの貞本義行さんも、細田のご指名です。だったんですけど、貞本さんは角川的には「新世紀エヴァンゲリオン」(角川書店の「少年エース」連載)の漫画を描いてもらわなきゃいけない。(彼が所属する)ガイナックスにも無理だと言われたんですが、そこを何とかお願いして。どうしても10日間だけ貸してと、彼のスケジュールを空けてもらって。10日間で集中して仕事をするために、まぁ、拉致するしかないなという感じで。

齋藤 言葉が悪いですけど…。

渡邉 それじゃ、監禁して。

−−(笑)大丈夫です、同じぐらい悪いですから。

齋藤 ホテルの部屋をとっておいて、「貞本さん、××時に打ち合わせに来てください」と呼び出して、「お食事でもしながら、だから今日は、ちょっと場所を変えて」と。それで、行ったきり1週間帰ってこない、と…。

渡邉 今から思えば冷や汗が出ます。

渡邊 あの時はガイナックスさんにも、貞本さんにも本当に無茶なことをお願いしたと…。しかし、あの10日間が無ければ「時かけ」は出来なかった。それに目をつぶっていただいたことに、改めて頭が下がる思いです。

 なにしろ、食事のときも外に出ずに、すべてホテルで済ませていましたから。細田監督も一緒に同じ1つの部屋で寝泊まりして、そこで2人で朝から晩までキャラクターを模索し続けました。僕らも彼らの要望に応えて、資料のDVDやトレス台を持ち込んだり、アイドルの写真集やファッション雑誌を山ほど買い込んで届けたりしましたね。

波多野 山本さんはどういうふうに。あの夏空の美術は素晴らしかったですよね。

齊藤 美術監督については細田監督から、この企画の当初より、この「時をかける少女」という世界が求める絵の世界観みたいな話やプランを、いつもお聞きしていて、彼が表現したいことや、作品との相性などという点で、僕の頭には最初から(山本)二三さんしか思いつかなかったんです。

 ただ、あの山本二三さんですから。僕らから見ても、いや世界的に見ても、本当に雲の上の存在の方ですから。正直、本当に決死の覚悟でしたよ(笑)。いろいろと細田監督のことや、今回の作品のこと、私が今まで細田監督と話をしてきた想いみたいなものを、元来おしゃべりなもので…沢山お話しさせて頂いたんです。

 そうしたら、細田監督が以前作られた「デジモン」などを、二三さんも見てらっしゃって、やりましょうと快諾して頂いたんですね。山本二三さんに参加して頂けたことは本当に光栄だったですし、今も本当に本当に感謝致しております。

渡邊 ところが、やっと山本二三さんが来てくれたのに、まだ絵コンテが上がっていません…という状態。「俺が来たのになんで仕事ができないんだ」と、これはこれで責められるわけですよ。

 もう、それの繰り返しですね。そこをなんとか…と待ってもらって、一気に勝負に入る。そういうコントロールをずっと齊藤さんがしてくれたんです。マッドハウスの中でも、最後の追い込みは前例がないぐらいすごかったらしいね。

齋藤 丸山が、マッドハウス30年以上の歴史の中でも、こんなのはなかったって言ってましたね。僕は30年いないから分からないけど(笑)。

「ブログや公式ページは自分でやってました」

−− 最後に、公開後の評判と、最初に予想していたものを比べたときの違いをお聞きしたいのですが。例えば、話題の火のつき方や、ネットでの盛り上がりがマスコミでも取り上げられていましたが。プロデューサーとしてはどういう印象でご覧になってましたか。

渡邊 半ば予想はしていたけど、想像以上だったですね。内容は絶対に自信があったし、見てもらえれば受けるはずだとは思っていたんですが。作品に対しての手応えは、なかのZEROホールというところで、キャパシティが1200人規模の試写会を2回、公開直前にやったときに感じました。

 2回とも、ほぼいっぱいになったということと、試写を見て帰っていった人たち、それ以外の試写で見た人たちも、次々とネットのいろいろなところに評価を書いてくださった。それが出てきたときに、人は入るだろうと思いました。

−− クチコミとか、ネットでの話題の広がりについては、バクチの要素として折り込み済みであったわけですね。

渡邊 重要な要素であることは、最初から感じてはいたんですが、それを宣伝の核に据えると決めていたわけではないです。一応、公式ホームページは去年の12月に立ち上げましたけど、当初は、僕が1人で。

齋藤 原稿、全部書いてましたね。

渡邊 ちょうどあの頃、Web2.0という言葉が流行り始めてました。あの言葉の意味はさておき、要するにこれまでとは違う新しいパラダイムが動きだす予感があった。

−− なるほど。

渡邊 そうすると、ホームページと、臨機応変に更新できるブログを手元に置きたかった。それで、自分が書くということで5月に公式ブログを立ち上げたんです。それぐらいしか方法がなかったってことでもあるんですが。さすがにプロデューサー1人だけでやっていくのはいくらなんでもあんまりなので、途中から専任のスタッフをつけましたけどね。

 いよいよ宣伝がスタートして、そこでブログをやっている人を対象とした「ブロガー試写会」(30人前後)というものを、宣伝プロデューサーが考えたんですね。

−− 「賛否どのように書いても結構です」と明言されたとか。

「ネット工作員」自体が、時代遅れの考え方だ

渡邊 それは当然のことです。宣伝を担当した角川メディアハウスの藤田美樹(映画では宣伝プロデューサー)が提案した企画でしたが、あくまでニュートラルに感想を書いてもらうことを目指しました。幸いなことに好意的な評価が目立ちましたが。

 もちろんテレビも、新聞も、告知はしているんですよ。いわゆる従来の宣伝スキームは、予算の中でしっかりやってはいます。その一方でネットは十分意識していました。明らかにこの2年ぐらいの間に、まずネットで情報を集めてから映画に行くということが定着してきていましたから。

−− これだけネットでの評価が高かったりすると、逆に、故意に上映館を絞ってたんじゃないか、みたいな話も出てきましたね。札止めになった映画って、それだけで行きたくなりますし。東京で1館しか公開しないのはわざとだ、そういう演出だ、みたいなことを言う人もありましたが。

渡邊 書き込みするネット工作員がいるんじゃないか、とかね(笑)。それこそ、Web2.0の本質を理解していない考え方じゃないでしょうか。現在のネットは大本営発表が通用する世界じゃないと思います。だからこそ「賛否どのように書いても結構です」と明言したわけだし。

−− 最初にお聞きした話に戻ってしまいますが、公開館数を急激に増やさない、という姿勢が、人気が盛り上がってからも続いているのは。

齋藤 それはあくまでも最初にお話ししたことの「結果」でしかありません。

渡邊 戦略ではないですね。

−− 大事なところだと思うので、しっかり聞かせて頂きたいんですけど、そうは言っても、評判がよければ、館数が増えて収入も上がるわけだし、あえて上映館を絞り続けなくても。

欲を出すと、全ての前提が崩れ出す

渡邊 あえて絞ろうと決めていたのではないんです。制作の予算に対する宣伝費のバランスなんです。

 最初に申し上げた「売るのは後から考える」という方針を守るためには、いい作品を作るだけじゃ済まない予算にしてしまってはダメです。前提が崩れちゃうんですよ。

 結局、予算に関して言えば、宣伝にかかろうが、制作にかかろうが同じお金ですから。せっかくある程度まで、適正予算を意識して作ってきたのに、ここで宣伝にたくさんかけてしまったら、そのためにハードルが上がっちゃうんです。

 P&A(プリント・アンド・アドバダイジング)という言い方があるんですが、公開館数(プリント数)と宣伝予算というのは密接な関係があるんですね。一般的な興行の常識として、全体の宣伝予算が決まったときに、おのずと公開する館数も、ある程度は決まってきちゃうんです。

 …と、知ったようなことを言っていますけど、僕も映画を作りながらだんだん勉強して、なるほど、そういう仕掛けだったのかと、やりながら学んでいったことがありまして。

−− 1本2本ならともかく、「今だ、何十本もプリント増やして公開館を一気に拡大!」とやったら?

齋藤 プリントを増やせば、その分宣伝予算が減るわけです。

渡邊 どちらも同じ予算の中で区切られているところが、ミソ。フィルムを焼けば焼くほど、宣伝予算は減っちゃう。宣伝予算が減ると、公開館が増えたのに、告知できなくて困るじゃないですか。じゃあ、適正なバランスはどこよ、ということになってくる。

齋藤 良質な作品を作り、その中で出来る限りの努力をして、公開館数をむやみに増やさないという基本方針を、みんなが信じてやり通した「結果」が、現在の姿かなと。

判断基準がブレなかったことが「結果」に出た

−− …なんというか、こういうことでしょうか。クオリティの高い作品を、お2人が高く評価する監督に作らせる、そのためには彼のやりたいことをやらせる必要がある。よって、予算も公開方法もそれが基準になった。もっと乱暴に言っちゃうと、いいものを細田監督に作らせよう、すべて監督が思うように、彼の自由度を最大限守れるように、と、いろいろと組み立てていったら、こういう公開の形になりました…ということですか。

渡邊・齋藤 そうです、そうです。

渡邊 制作の最中に、迷ったときの基準もそれ。主題歌はどうしよう、主役をどうしようとか、さまざまな。

齋藤 試行錯誤やいくつもの分岐点・紆余曲折がありました。

渡邊 全部、分岐点での判断基準は、それだったんです。いくつかあったんですよ、もしかしたらビッグバジェットの作品に切り替わる可能性がある分かれ道が。何回かはあったんですが、それを1つ1つね。

―― マイナーな方向を選ばれた?

渡邊 (笑)、いえいえ、監督のやりたい方向を確かめながら進んできたわけです。

−− メジャーを取るか、自由度を取るかというところで、自由度が高い方をとってきた、ということですね。

渡邊 いや、監督も僕らもメジャーな作品を作ったつもりですよ。マイナーだとは全然思いません。ただ、さまざまな方向を決めるときに、売り上げを増やすための施策として選択するか、作品の純度を上げるために選択するかという判断があるなら、純度の方を優先したということかな。

齊藤 常に純度が高い方を選択してきた。小さくとも本物の輝き。そこを決して僕らも、ぶらさなかったということですよね。

−− うーむ、ネットで高い評価を受けた理由が分かった気がします。収益の見通しをお聞きしたいのですが。

渡邊 どうなんでしょうね。

−− 劇場パンフや絵コンテ集の売れ行きがすごいとも聞いてます。絵コンテ集なんてDVDが買えそうな値段なのに。

渡邊 公式ガイドブック(『時をかける少女 NOTEBOOK』)もおかげ様でよく売れているようです。

―― ああ、ガイドブックの中でも渡邊さん、齋藤さんが対談していますが、これがまた面白い。このインタビューでご興味を持たれたらぜひ読んで頂きたい。

齋藤 パンフは来場者の3割くらいの方が買ってくださっているそうです。

−− どれも、DVDが出るまで、これで自分の気持ちを持たせようと思って買っているんでしょう。これから推しても、DVD(発売は2007年春以降の見込み)は相当売れるでしょうね。

渡邊 分かりませんが、売れてほしいです。またこういうことをやる機会を頂きたいですからね。

(終わり)

(写真:大槻 純一 構成:波多野 絵理)

渡邊隆
角川書店 製作プロデューサー
1959年4月生まれ、栃木県宇都宮市出身。学生時代よりアニメージュ編集部でフリーライターをしていたことがきっかけで、レコード会社の徳間ジャパン(当時)に入社、アニメーション音楽ディレクターを担当。その後、徳間書店の「アニメージュ」編集部に移り、編集長を務める。不定期の映像誌「GaZO」を発刊。角川書店に移籍後、「ニュータイプ」の編集長に。現在はメディア部次長。本作のプロデューサーを務めた。

齋藤優一郎
マッドハウス 制作プロデューサー
1976年11月生まれ、茨城県守谷市出身。米国留学卒業後、1999年9月、マッドハウス入社。主にりんたろう平田敏夫杉井ギサブロー川尻善昭浅香守生小池健等の監督作品へ参加。その他、企画の立ち上げや、海外、実写とのコラボレート作品などにも数多く参加している。近年は、細田守劇場最新作「時をかける少女」と川尻善昭劇場最新作「HIGHLANDER ?The Search for Vengeance-」の制作プロデューサーを同時に兼任した。