Web2.0(笑)の広告学 “芸のない広告”が求められているのかも

2006年12月5日 火曜日 須田 伸
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20061201/114762/

「テレビCMっていうのは、面白くなくっちゃいけない。なぜ面白くなくっちゃいけないかというと、呼ばれてもいないのに、勝手に人の家のお茶の間に入っていって、広告主の商品の宣伝を聞いてもらおうっていう、随分と図々しい真似をするわけだから。せめて、手を変え品を変え、いろんな芸を見せて楽しんでもらえば、少しはこっちの話も聞いてもらえるっていうのが道理だろう」

 私が広告業界に入って最初に教えられた「なぜCMは面白くなくてはいけないか」という説明です。たしかに、プロ野球の中継の合間に流れても、連続ドラマの間に流れても、お笑い番組の間に流れても、視聴者の興味をひかなくてはならないテレビCMは「お楽しみのところお邪魔します。コマーシャルの時間でございます」と、必ずしも歓迎されない状況下で舞台にあがるわけです。

芸が余って商品伝わらず

 もちろん「面白さ」と言っても色々あります。いわゆる「ギャグ」だけがテレビCMの面白さではありません。見たこともない美しい映像や、可愛い動物だったり、人気のタレントだったり、時代の気分をうまく表現した言葉だったり、さまざまな「大勢の視聴者の注目を集めるための面白さ」をつくるための芸を広告制作者は磨いているのです。

 時々「すごく面白いCMだったけど、なんの宣伝だったかおぼえていない」と言われてしまうのは、楽しんでもらってお茶の間に入り込むというミッションまでは成功したけど、広告主の商品のことを伝えきるに至らなかった、ということです。ただ、これを広告表現だけの責任にしてしまうのは少々酷な場合もあって、やはり肝心の商品に魅力がないと、いくら消費者の目の前まで運んで伝えても心までは届かない、というケースも少なからずあります。

 消費者にとってみれば、広告だろうと番組だろうと、「面白くて魅力的な部分」と「退屈で役に立たない部分」の2つしか存在しない、そんなことなのかもしれません。だいぶ前の話ですが、オーストラリアに生息するエリマキトカゲが日本で大ブームになったきっかけもテレビCMでしたが、そのCMの商品はあまり売れなかったと聞いています。テレビの視聴者にしてみると「見たこともないエリマキトカゲの映像」はたいへん魅力的だったけど、「商品情報」はそうではなかった、ということなのでしょう。

あえて、芸をしないほうがいい場合

 ところが昨今、広告を載せるメディアも、その載せ方の手法も多様化する中で、「関係のない所に入っていく広告には興味をひく芸が必要だ」という従来の考え方とは、また違ったケースも出てきているのかなと思うことがあります。

 ひとつは「コンテンツ連動型広告」と呼ばれるもの。ニュースサイトのような企業が運営するものだけでなく、個人のブログでもこの「コンテンツ連動型広告」を掲載しているものが増えています。ご存じの通り、記事やブログなどに書かれている文章や文脈、キーワードをシステムが分析し、その内容と関連性の高い広告が表示されるという仕組みです。

 サイトやブログの運営者には広告のクリックに応じて報酬も支払われるので、広告だと意識しなくても、文章を書いているうちに広告収入が入ってくることにもなります。このサービスとしては、グーグルのアドセンスが代表的ですが、サイバーエージェントでもマイクロアドというコンテンツ連動型広告を運営しています。

 では、なぜこの「コンテンツ連動型広告」では、広告として興味をひくための“芸”をやりすぎないこと」を意識しなければならないのでしょうか。

 それは「コンテンツと広告の連動」の精度が高ければ、広告が「いきなり転がり込んできた侵入者」ではなく、もともとの記事に寄り添った「関連情報」になるからです。

クリエイティブが邪魔になる

 たとえば個人のブログで以下のような記事があったとします。

「遅ればせながら今年のボジョレー・ヌーボーを飲みながらこのブログを書いています。毎年、毎年、今年のヌーボーは天候に恵まれ例年にない良い出来という、異常気象が続くこの惑星に同じように存在するとは思えない不思議な土地、ボジョレーはフランスのどのあたりにあるのでしょうか?自分で調べればすぐに分かることでしょうが、今夜は酔いがまわってきたのでお休みなさい」

 この個人ブログに「コンテンツ連動型広告」が組み込まれていると、ブログ記事をシステムが解析して、「今年のボジョレー、その出来をご自分の舌で確かめませんか。送料無料キャンペーン中」といった広告がそのブログ上に表示されるわけです。ブログ読者にしても「じゃあ俺もだまされたと思って、例年にない出来というやつを一杯やってみようかな」と思ったところにぴったりの広告があれば、それは便利な「関連情報」「追加情報」です。

 で、この場合は関連情報、追加情報なわけですから、そこに広告表現の技を駆使して「秋の夜長をカップルで楽しく過ごす飲み物といえば、やっぱりワインです。そして秋のワインといえば、そう、ボジョレーヌーボー」とやっても「知ってるよ。もうこのブログ記事で読んだよ。それに俺はひとりだよ」ということになりかねない。かえって芸が邪魔になるかもしれない。

 関連情報としての「広告」においては、広告クリエイティブの「興味をひく芸」を出しすぎないことが重要になってくるのではないか、と思うのです。

 あらゆる人や団体が情報を発信するメディアになる時代には、「広告する商品や企業の魅力を伝える」という広告の役目は同じでも、「どんなふうにその魅力を伝えるか」という姿形はそれ以前とは変わっていく。考えてみれば、当然のことのようにも思えます。

「勝手に広告」のあやうい魅力

 「広告の興味をひく芸」について、あらためていろいろと考えるにいたったのは、中村至男氏と佐藤雅彦氏の「勝手に広告」(マガジンハウス)をパラパラと眺めていた時です。ネット書店アマゾンの「出版社 / 著者からの内容紹介」によれば「リラックス、カーサブルータスで話題の連載がついに1冊に! 企業の広告要素を使った最高のアート表現。物語が浮かぶような作品群に、軽いめまいを覚えます」とこのことです。

 「広告のようで広告でない世界に、きっちりと商品やロゴが存在している様」は確かに不思議な感じです。アンディ・ウォーホールのアート作品「キャンベル・スープ」と違うのは、広告としてほとんど成立しそうで、確信犯的に広告にしていないバランス感覚でしょうか

 同時に「わざと広告として成立させていないことで、最も現代的な広告になっているのかもしれない」というパラドックス的な感想を持ちました。

 それと、広告が「興味をひく芸」をしすぎないほうがいいケースが増えている、と私が感じるのには、「コンテンツ連動広告」の出現のようなメディア環境の変化に加えてもうひとつ理由があります。

 それは消費者の変化です。

いったい広告って何だっけ…

 今日の消費者は、情報の受け手として「あらゆる情報の中から自分にとって役立つ部分、楽しい部分だけを抽出して、それ以外は排除してしまう能力」いわゆる「メディアリテラシー」がどんどん進化しています。

 消費者の「メディアリテラシー」を向上させている大きな要因に「自分も情報の発信側にまわるようになった」ことがあると思います。それは具体的には、個人ブログであり、ミクシィのようなSNSであり、アマゾンなどで見られる消費者による商品レビュー、などのことです。「自分が情報を発信する側」にまわる経験をすることによって、逆の立場である「情報の受け手」としてのスキルが向上したわけです。

 その結果、今日の消費者はさまざまな広告の仕掛けをあっさりと見抜いてしまいます。さらには過剰な広告の芸に対しては「そこまで頑張って宣伝しないと売れないような商品なのかもしれないな」と思われてしまうリスクもあります。

 書籍「勝手に広告」の中の作品は、「僕って魅力的でしょ」というメッセージを伝える「広告」としての役割を放棄しています。だから逆に魅力的に見えるのでは? と思ったのです。同時に、「それではやっぱり広告とは呼べないじゃないか!」と頭を抱えてしまいそうな気分にもなりました。

 「勝手に広告」の作品は、広告ではありません。でも、「広告ってそもそも何だっけ?」という、根っこの部分を考えるきっかけをくれたと感じています。

「広告って何なのか?」

 そろそろ、ここを考えないと前に進めなくなりそうです。次回、私なりの見立てをしてみようと思います。読者の皆様のお知恵もお借りできれば嬉しいです。あなたが考える「広告とは何か」の定義、聞かせて下さい。