Web2.0(笑)の広告学 マスコミがないと成立しない日本の「YouTube」 「俺の話を聞け社会」と「そうだよね社会」の違い

2006年10月24日 須田 伸
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20061023/112177/

In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes. Andy Wahol
未来においては、誰もが15分間有名になることができる。(アンディ・ウォーホール

YouTubeの本来の目的は「自分を放送しちゃおう!」

 YouTube(ユーチューブ)のサイトにあるキャッチフレーズは「Broadcast Yourself」です。「自分を放送しちゃおう!」という実に能天気といえば能天気なキャッチフレーズですが、創業者の2人も今回の買収についてのコメントを自ら投稿。くったくのない陽気な笑顔を見て「なるほどこの明るさがサービスにもあらわれているな」と妙に納得してしまいました。

 自分を放送したことで有名になり、リターンを得たのはYouTube創業者の2人だけではありません。

 中国の大学生の2人組「Back Dorm Boys」はその典型かもしれません。自分たちの大学の寮(英語でDormと言います)の一室で、アメリカのポップグループ「Back Street Boys」の曲「I want it that way」にあわせて口パクで歌う、エアギターならぬ“エアボーカル"の映像をYouTubeで公開したところ、たちまち人気になり、携帯電話のモトローラや、清涼飲料ペプシの中国での広告キャンペーンに起用までされました。動画共有サイトが生んだ中国のシンデレラ・ストーリーです。

 他にもヒューマンビートボックス、 Tシャツ重ね着世界記録に挑戦、などなど動画共有サイトで「自分を放送」して、有名になる人がどんどん出てきました。かつてのウォーホールの予言が現実になりつつあるという気がします。

 「Famous First, Paid Later」(まず有名になれば、リターンは後からついてくる)というメンタリティは、YouTubeの運営者と利用者の双方に通ずる真理なのかもしれません。

日本では「みんなのHDDレコーダー」化したYouTube

 ところが、これとまったく状況が異なるのが日本です。

 以前の本稿でYouTubeを取り上げたときにも書きましたが、日本のネットユーザーが見ているYouTubeコンテンツの多くは、おもにテレビ局が作成した番組コンテンツを勝手に投稿したもの。つまり日本人はYouTubeを「みんなでつくるハードディスクレコーダー」として活用しているのです。

 具体的に実際に話題になりアクセスを集めたのも、「亀田パパVSやくみつる」「24時間テレビラソン」「極楽トンボ加藤謝罪」といったテレビ局制作の映像です。

 つまりアメリカにおいてYouTubeは、もちろんテレビや映画の映像もたくさんあがっていますが、同時に「俺様放送局」としても機能しています。ところが日本からのYouTube視聴は圧倒的に「テレビ局増幅器」になっている。少なくとも僕にはそう見えます。

 それだけではありません。YouTubeに対しては、ユーザー側だけでなく、制作者側にも日米では大きな意識の違いがあるようです。

 日本テレビ土屋敏男エグゼクティブ・ディレクターはYouTubeに対して「ナップスターの時と同様、アメリカの3大ネットワークなどがつぶしてくれると思っていましたが、彼らがYouTubeと次々に提携をはじめたのでびっくりしました。どうやらYouTubeに非合法にアップロードされた動画がフックになって、テレビ番組の視聴率が上がったというデータもあり、うまく適応したほうがいいぞという結論に達したようです。アメリカでは事実上、半分認められたような印象がある」と語っています。(2006東京国際デジタル会議フォーカスセッションより)

「そこそこの知名度」がある人がブレイクする

 YouTubeで個人が有名になりリターンを得ていく構図を見て、アメリカのテレビ局や映画制作者たちが、自分たちのコンテンツもこの流れにのせればリターンが得られると思ったのに対し、日本の著作権利保持者がYouTubeを見たときには「俺たちが制作したコンテンツを勝手にアップロードして皆で見ているだけじゃないか」と考えた。いわば、田んぼの水路から勝手に水を引き込む「単なる水泥棒」にしか思えなかったのです。

 さらに言えば、こうした日米の差異はYouTubeに限りません。ネットで人気を集めるコンテンツ全般にこの傾向があります。

 最初にあげたように、米国ではネット「だけ」で有名になった人がたくさん出てきました。一方、日本のネット上の有名人は、たとえば真鍋かをりさんのように「ネットで発見された」のではなく、既にテレビや雑誌、映画である一定の知名度を持っている人が、ブログを書いたことで別の一面が見いだされ、ブーストされて人気が爆発するといった流れがあるように思います。

 皮肉に聞こえるかもしれませんが、ネットを見ていると日本社会における「マスメディアの力」をあらためて実感するのです。なぜなのでしょうか?

ブログ、SNS、動画共有サービス。

 アメリカで人気のネットサービスが日本でも人気なので、ついついすべてが同じように感じてしまいますが、その使われ方、受け止められ方は、日米で大きな差があるのではないか。その仮定に立ち、理由を考えてみましょう。

「俺の話を聞け社会」と「そうだよね社会」

 クレイジーケンバンドの歌「タイガー&ドラゴン」に「俺の、俺の、俺の話を聞け〜」という一節がありますが、アメリカにおけるブログ、動画共有サービス、そしてSNSの使われ方を見ていると、まさに「俺の話を聞け社会」だと実感します。自己主張しないと生き残れない社会なんですよね、アメリカは。

 一方で日本のこうしたサービスの使われ方、特にミクシィを見るとよく分かるのですが、そこにあるのは「俺の話を聞け」ではなく「君も僕もおんなじだよね。うんうん、その気持ちわかるよ」という「感情共有型社会」です。逆に日本でアメリカのような「俺の話を聞け〜」を徹底的にやってしまうと、生き残れないような気がします。

 ここで言いたいのは、どちらがいい社会か、ということではなく、存在する事実として社会の持っている文脈が違うということです。

 そして「俺の話を聞け社会」においては、スタンドアローンでひとつの映像、ひとつの記事で有名になることもできるわけですが、「感情共有社会」において突出したものは足を引っ張られることが多い。

 冒頭で紹介したYouTubeの創業者2名の笑顔の映像を見たときに、もし彼らが日本人であれば翌週の週刊誌などで「YouTube創業者、学生時代の悪評?」といった記事が出るんじゃないかと思いました。舞台が日本であればこのサービス自体、とっくに潰されていたはずだから、この仮説自体が無意味という指摘には「うんうん、そうだよね」と答えるしかないのですが。

共同体におけるお墨付きを、我々はネットでも求める

 日本のメディアの報道を見ていて思うのは、彼らこそが「共同体の共通ストーリーの語り部である」ということです。亀田3兄弟の報道が典型で、あの疑惑の判定の一戦を境に「共同体(世間、と言い換えてもいいですね)の彼らに対する共通幻想」が、ある方向から別の方向へ変わりました。

 そこに異論を挟むのではなく、むしろその流れに乗って増幅していくマスメディアの報道は、ジャーナリズムというよりも、ムラ社会の巫女のような存在なのではないか、という気がします。

 また我々受け手も、巫女の話を聞いて安心するわけです。「テレビでこんなこと言ってた」というのは、ブロガーの記事に実に多く見られるパターンです。そもそもテレビそのものが、朝の情報番組では「朝日新聞では」「読売新聞では」と他社のメディアのニュースを壁一面に貼り付けて、アナウンサーが記事を指さしながら番組をつくっています。

 「これは共同体的にOKだよ」という宣託をくれるマスメディアの巫女性というのは、非常に日本的な気がします。もちろん海外のメディアにおいてもそういった部分がゼロだとはいいませんが、受け手サイドの人種や民族がバラバラであったりしますし、ニュースの作り方もより狩猟民族型だと思います。ところが報道の現場においても記者クラブという強固なムラの仕組みを持ってしまうところに、日本のメディアの特性が出ています。

 これは、マスコミは意のままにネットの世論を操れる、ということではありません。我々は、共同体の巫女としてマスコミを求める傾向が強い、ということです。

 もちろんアメリカにおけるブロガーやYouTube投稿者のような「自分を強く主張し放送する存在」はなかなか生まれないかもしれませんが、引用する、コメントをつけるといった作業により、日本でも「増幅器」としての役割は確実に担うようになりました。増幅は、ポジティブな方向にもネガティブにも効きます。

 マスメディアが「流行をつくってやろう」とやや乱暴な動きをすれば、ネガティブな方向へ消費者が増幅して、その動きを破壊してしまう、そんなケースが増えています。ネット上でもマスコミの影響力は強い。ただし、それは彼らが共同社会の流れを踏み外さないときに限られていて、流れを押し返してマスコミたち「だけ」で流れをつくれる時代では、なくなってきたのは確かです。

日本流「共同体」における広告はどうあるべきか?

 マスメディアの社会の巫女としての重要性と、一般消費者がブログやSNS動画共有サイトを通じて増幅していくパワーの両方を確認しました。

 さて、このコラムの本題に立ち返りましょう。今後この共同体における広告はどう変わっていくのでしょうか。

 社会が持つ共通ストーリーの中に入り込むことが、マーケッターの重要なミッションになるのは間違いない。「流れをつくる」のではなく「流れに寄り添う」のです。

 「マスメディアに広告を打つ」ことで、社会の文脈をつくれる時代がかつてありました。しかし、今後はそれは望めなくなっていきます。

 ブログやSNS、映像共有サービスで「今、みんなが話題にしている流れ」とうまくシンクロしつつ、なおかつみんなが担ぎたくなる「神輿」に、商品やサービスを載せていく。では、どうすればいいのか。

 鍵になっていくのは、「コンテンツとコンテクストの掛け算」、ということになるのではないか、と思います。コンテンツを「村のお祭り」、コンテクストを「村の日常社会」と考えてもいいでしょう。次回以降に詳しく書きたいと思います。

 さて今回は、きっと異論をお持ちの方も多いと思います。皆様からの反論・質問・ご意見をお待ちしております。